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登山家・重廣恒夫のヒマラヤアーカイブズ Vol.8 ~幸運の山②~.
UPDATE : September. 17 2019

キャンプ4(7550m)

日本のヒマラヤ登山の発展に多大なる貢献をしてき登山家 重廣恒夫氏。
1973年のエベレスト南壁から、1995年のマカルー東稜まで22年間、14回ものヒマラヤ登山隊に参加。
「より高い山を、より厳しいルートから、より難しい方法で登る」という、アルピニズムの哲学を長年にわたり、ヒマラヤで実践しながら幾多の高峰に足跡を残してきた重廣氏の軌跡をご紹介して行きます。

shigehiro-vol8_01マッシャブルムからのバルトロ氷河、ブロード・ピーク(右)、K2(左)

ブロード・ピークからの生還

 ブロード・ピークは8000m峰14座のうち、12番目に高い標高(8051m)で、11番目に初登頂(1957年6月9日)された山である。世界第2の高峰K2から流れ出るゴドウィン・オースチン氷河に臨むこの山を、1957年に初登頂したオーストリア隊は極地法と呼ばれるオーソドックスなヒマラヤ登山方法ではなく、アルプスを登るように酸素も高所ポーターも使わずにわずか隊員4名で荷揚げ、ルート工作をして登頂に成功した。大量の物資とポーターを投入して登るのが普通だった当時としては画期的な成果として世界に知れ渡った。また、登頂隊員のヘルマン・ブールが8000m峰2座の登頂者になったこと、そのブールが登頂の数週間後にディームベルガーと共にチョゴリザの初登頂を目指したが、雪庇を踏み抜いて還らぬ人となったことでも話題になった。

shigehiro-vol8_02ブロード・ピーク三山(右より主峰・中央峰・北峰)

バルトロ氷河の一週間

 7月26日、マッシャブルム北西壁初登攀後全員がベースキャンプに揃った。翌日マッシャブルムBCからの荷下げと、さらにブロード・ピークBCに向かうポーターを集める為に、山本隊員と私はバルトロ氷河に下った。通信手段のない辺境の地にあっては、ポーターの手配には最奥の村アスコーレまで下るか、K2やガッシャブルムのBCに荷上して村に帰るポーターを捕まえるしか手段がなかった。最初の5日間は人の往来がなかった。誰もいない氷河上では何もすることがなく、せいぜい小川の流れで体を洗うぐらいであった。夜になると決まって対岸の山からガラガラという大きな音が聞こえた。何の音かあまり気にもしなかったが、ある夜トイレに立ってビックリした。闇の奥の山腹に音を立てて流れ落ちる一筋の赤い線。夏の強烈な日差しで雪や氷が融け小さな湖となり、それが毎夜9時頃になると決壊、石と石が激しくぶつかりあって火花を散らしながら流れ落ちていたのである。数日後ポーターも揃ったので、マッシャブルムBCの荷物と氷河の奥にデポしておいたブロード・ピーク用の荷物を回収し、8月2日ブロード・ピークのBCへと向かった。途中、ゴレポロで一泊して翌日5050mのBCに到着したが、予測せぬ出来事が起こった。食料を担いでいたポーターが行方不明になったのである。捜索したが当日は見つけることが出来なかった。翌日ポーターは現れたが空身である。8月5日、終日冷たい雨の中をポーターの遺失した食料カートンを探しに行くが空振りに終わった。

K2ベースキャンプ訪問

 8月6日、直前にガッシャブルムⅣ峰(7925m)西壁をアルパインスタイル登ったクルティカとロベルト・シャウアーに招待されK2のベースキャンプを訪問した。BCには日本ヒマラヤ協会隊の山田昇達もいて賑やかな交歓の場となった。日程の大幅な遅れと、虎の子の食料カートンを失い食べ物に飢えていた我々にとって、K2ベースキャンプでの飲み食いはまさに天国であった。飽食の一晩を過ごした我々は翌日、ザック一杯の食料と共にBCに意気揚々と凱旋した。

登攀開始

 ブロード・ピークBCには、登山を終えたパキスタン陸軍の登山隊、これから頂上を目指すポーランドの女性隊、フランスのモーリス夫妻、単独登頂を目論むスイス人ガイドの4隊が天候の回復を待っていた。8月8日、やっと晴天を迎えた。濡れた衣類や装備を乾かし、明日の出発に備えてのゴミの焼却、テントの整理などあっという間に1日が過ぎた。9日、晴れ上がった早朝に8名の隊員とリエゾンフィサーが3隊に分かれてBCを後にした。頂上までの標高差約3000m、我々の後を悪天候下待機していたポーランドの女性2人、スイス人ガイドが続いた。1時間ほど氷河を歩いた後雪壁に取付き、急な氷壁を登り5800mに着いた。強い日差しで喉が渇き、岩場の窪みの融水を啜る。さらに岩尾根の雪面をラッセルしながら6100mに到着し3張のテントを設営(C1)した。

shigehiro-vol8_03西稜に取付く

 10日、軽量化のためテント1張りを残して隊を2つに分けて行動を開始した。天気は良いが南西の風が強くなり、K2・やブロード・ピークに傘雲がかかっている。岩稜から雪壁登りを繰り返しながら上部雪稜に入り、200m前後のフィックスロープを登った7100m地点に2隊が昼までに集結した。隊列が長くなったことと、上部のテントサイト適地が予測できないこともあって標高的には満足のいくものではなかったが2つのテントを張った(C2)。背後には1988年に京都大学隊が初登頂したチョゴリザ(7654m)が聳えていた。この日僕の体調は最悪だった。前夜から酷い下痢に悩まされていた。行動中も何度か雪の上に屈まなければならず体力を消耗した。前日、パキスタン陸軍隊のキャンプ跡に落ちていた干し肉を食べたのが原因らしい。

shigehiro-vol8_04C2建設(後方はチョゴリザ)

登頂とビバーク

 11日、夜半に起床、2時過ぎにC2を出発した。今日中に頂上を往復する予定でテントや寝袋は残した。途中のセラック帯でルートを間違えて大幅なロスタイムとなったのと、雪が予想外に深く高所のラッセルに苦しめられ、2本のロープをフィックスして烈風が吹き抜ける主峰と中央峰のコル(7850m)に到着したのは出発から11時間後の13時過ぎであった。ここから頂上までの標高差はそんなに無いが、前峰を通過しその先にある頂上は遠い。平坦地も少ないので1隊(4名)はコルでビバーク、残りの1隊(5名)はセラック帯(7500m)まで降りてビバークした。ふたつの隊はテントの外張りを冠り、ロープやザックの上に腰を降ろして寒い一夜を過ごした。12日、セラック帯でビバークした隊は午前3時に、コルでビバークした隊は5時40分に登山を開始、コル隊3名、セラック隊3名が昼までに順次ブリザードの中頂上に立ったが、3名は時間切れで頂上に立てなかった。この日コル隊3名は7100mのC2まで下ったが、セラック隊は前日のビバーク地に戻るのが精一杯であった。頂上からの下山途中、急な雪壁部のフィクスロープを回収したため最後尾となった。雪面が緩やかになるころ薮川隊員が雪の中にうずくまっていた。昨夜コルでビバークし、体調を崩して下山していたはずだった。事前に8名の隊員が下山していた。誰もが声を掛けたはずであるが、恐らくその場所から一歩も動けていないのだろう。声を掛けると、「先に下ってください。後を追いかけます」と言う。そのままにすると死が待っているだけである。回収したロープを結び、強引に引きずり降ろし7500mのビバーク地に下った。2日目のビバークは食べる物もなく寒さに震えた劣悪な一夜であった。13日、C2でコル隊と合流した後C1まで下った。薮川の凍傷は酷く、両手指が白蝋化している。コッヘルに湯を沸かし解凍するが、激痛のため顔が歪むがいたしかたない。

shigehiro-vol8_05主峰山頂に立つ

決死の下山

 14日、両手指凍傷の薮川隊員をサポートしながらの長い下降が始まった。途切れ途切れのフィックスロープを頼りに下降するが、疲れ果てた姿はまるで敗残兵のようである。本来ならば往路を引き返すところであるが、このような状態では誰が滑落してもおかしくないので、パキスタン陸軍隊の登ったチムニールートを下ることにした。しかし、BCで彼らに聞いていたルートコンディションとは大きく変わっていた。フィックスロープは繋がっているもののルンゼの中は水が流れ、落石が頻発し、最悪の状況下での下降中リエゾンオフィサーの太腿を大きな石が直撃し動けなくなった。それでも必死に下降を続ける。長い下降の後、日没直前に氷河のサイドモレーンに降り立った。その後も真っ暗闇な氷河の上を夢遊病者のようによろよろ歩き、最後に氷河を流れる川を渡って日付が変わる頃BCに帰還した。「生還」という言葉を実感する1日であった。
 我々の後を追いかけていた外国隊は強い風のために追い返され、いずれも登頂できなかった。カラコルムの短い夏が終わった。

shigehiro-vol8_06マッシャブルムからのブロード・ピーク(全体)

ワンダ・ルトキェヴィッチ(1943~1992)との出会い

 8月15日、先に下山していたワンダが話しかけてきた。聞けばBCでいつも聞いていた喜太郎のテープが欲しいという。1980年にNHKで放送された「NHK特集シルクロード」のテーマ音楽がいたく気に入ったらしい。気前よく渡すと、たいそう喜んでくれた。帰国後、ワンダから手紙がきて、我々がブロード・ピークで使っていたゴアテックスのテントが欲しいという。ダンロップスポーツに掛け合って、1張りのテントをいただきポーランドに送った。
 ワンダは世界を代表するポーランド人女性登山家だった。既に女性3番目となるエベレスト登頂に成功していたし、女性だけで冬季マッターホルンやナンガ・パルバットの登頂も成功させていた。しかし、我々が下山した後再びブロード・ピークに挑んだが登頂できなかった。そして、下山中に我々も渡った氷河上の川の渡渉でパートナーのバーバラを失った。翌年(1986年)には、K2初の女性登頂者となったものの一緒に登頂したリリアヌとモーリス夫妻は下降中に吹雪に巻き込まれ還れなかった。この夫妻もまた85年夏にブロード・ピークを目指した5人の外国人のうちの2人であった。その後ワンダは女性初の8000m峰14座登頂を目指して、シシャパンマ南稜、ガッシャブルムⅡ峰、チョ・オユー(単独)、アンナプルナⅠ峰南壁(単独)を登り順風満帆に見えたが、1992年第3位の高峰カンチェンジュンガで行方不明となり現在まで遺体も見つかっていない。

重廣 恒夫 / Tsuneo Shigehiro
登山家