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登山家・重廣恒夫のヒマラヤアーカイブズVol.7 ~幸運の山①~.
UPDATE : June. 10 2019

キャンプ4(7550m)

日本のヒマラヤ登山の発展に多大なる貢献をしてき登山家 重廣恒夫氏。
1973年のエベレスト南壁から、1995年のマカルー東稜まで22年間、14回ものヒマラヤ登山隊に参加。
「より高い山を、より厳しいルートから、より難しい方法で登る」という、アルピニズムの哲学を長年にわたり、ヒマラヤで実践しながら幾多の高峰に足跡を残してきた重廣氏の軌跡をご紹介して行きます。

shigehiro-vol7_01バルトロ氷河から見るマッシャブルム

 1977(昭和52)年のK2登山の際、キャラバンの往き帰りに垣間見えたのが、カラコルムの蒼い空に今にも飛び立たんとするコンドルにも似て屹立している山マッシャブルムだった。そして79(昭和54)年のラトックⅠ峰の初登頂時、遥か彼方夕陽に輝く岩の頂が見え、いつかあの大岩壁を攀じたいという想いが膨れあがった。

マッシャブルム登山史

 マッシャブルム東峰(7821m)は60(昭和35)年、アメリカ・パキスタン合同隊によって初登頂され、南西峰(7806m)も80(昭和55)年、ポーランド隊によって初登頂されていたが、北面は圧倒的な威圧感のある大岩壁による近寄り難さもあって、長い間各国登山隊の挑戦を受けることがなかった。76(昭和51)年、武蔵野大学山岳部・どんぐり山の会は、北面のマンドゥ氷河から西稜をめざしたが雪崩のため北稜に転進し5530mに到達するも、以後の登攀を断念した。80年アメリカ隊が北稜から西稜を試登。同年関西登高会隊が北稜に挑み、6650mにC3を設けたが雪崩でテントが半壊、前途の目処が立たず敗退した。翌81(昭和56)年アメリカ隊が北壁から西稜を試みたが、C2を出しただけで断念。雪崩の猛威には手の打ちようがなかったという。

ハットトリックを目指す

 84(昭和59)年、カンチェンジュンガ縦走登山から帰国してすぐにマッシャブルム北面攻略立案に着手した。縦走の次のヒマラヤ登山をどうするかという模索の結果、マッシャブルム北稜登攀のあと、継続してブロード・ピーク、ガッシャブルムを登るというハットトリックを目指した。しかし、ガッシャブルムは登山隊の数が多すぎて許可を取ることができなかった。マッシャブルム北面にはこれまでに3隊が挑んでいたが、登頂の可能性を見出すような情報はどの隊からも得られなかったので、ラトックⅠ峰同様に数枚の写真から登頂の可能性を探らざるを得なかった。
「1985年関西カラコルム登山隊」の登攀隊長となった私は、登頂成功のための方策を以下のように策定した。
① ルートの困難さと、ルート工作・荷上げなどの登り降りの回数が多く、高度順応に寄与するので酸素ボンベは使用しない
② ルートの寸断を避けるため、隊を3分割し間断ない行動を図る
③ 安全確保のため、必要な部分には躊躇なく固定ロープを張る
④ 十分休養できるようにキャンプ地は安全な場所を確保し、行動ステージを分散することによって広い居住空間を得る
⑤ 荷上げ管理を的確におこない、余分な物資の移動を最小限に抑える

マッシャブルム北西壁初登攀

 85(昭和60)年5月6日、成田出発。15日、ラワルピンディーからカラコルムハイウェイを走り登山基地スカルドへ向かう。20日、167人のポーターと共にダッソーからキャラバンを開始する。最奥の村アスコーレまでの行程は6年ぶり、コラホンからは9年ぶりの光景が拡がる。緑の樹々が茂るパイユで1日休養、26日にバルトロ氷河に入った。イエルマネンドゥ氷河のどん詰まりに設営したベースキャンプ(4600m)に全員が揃ったのは31日であった。

shigehiro-vol7_03懸垂氷河を越えて上部プラトーに出る

shigehiro-vol7_04上部プラトーからのブロード・ピーク(左から北峰、中央峰、主峰)

 6月1日からルート工作を始め、5600mのコルにC1を建設した。13日には前衛峰と主峰の間のコルにC2(6100m)を建設しC3 までのルート工作をおこなったが、その後降雪が続き一旦BCへと下った。29日、C3(6400m)を建設、ルートは北稜から北西壁に変わったが悪天は続いた。

shigehiro-vol7_05北西壁を登る

 7月4日に天候が回復してからは急ピッチでルート工作が進んだので7日、全員がBCに下り休養に入った。9日に先発隊、10日に後発隊がBCを出発し登山を再開したが、計画より10日以上も遅れたために上部の食料が不足したので、残り少ないBC用の食料も持ち上げなければならなかった。11日、先頭パーティーがC4(7200m)に入り、上部のルート工作を開始。その後も交代をしながらルートを延ばしたが、15日から再び天候が悪化し3日間の足止めをC3・C4で余儀なくされた。21日、第1次アタック、22日に第2次アタックを試みるがいずれも頂上には届かなかった。稜線に出る手前の西峰寄りの100mほど離れた稜線下にロープにぶら下がった遺体と、雪壁に突き刺さったピッケルを発見(81年のポーランド隊のものと思われる)した。

 23日、曇り空で時折小雪の舞う天気ではあったが、前日7550mでビバークしたパーティーとC4を出発したパーティーが同時に出発。相次いで頂上に到達した。下の氷河から雲が湧きあがって展望はそれほど良くないが、それでもK2、ブロード・ピーク、ムスターグ・タワーが顔を出していた。

shigehiro-vol7_06最後の岩壁帯を突破する

shigehiro-vol7_07頂上手前の小岩峰を登る

shigehiro-vol7_08マッシャブルム主峰山頂

幸運に恵まれて

 6月20日に建設したC3は北稜から北西壁に移る稜上にあって、雪崩からの防護壁としてクレバスの段差を利用したテントサイトであった。ここは上部のルート工作の拠点であり、滞在期間も長く多くの物資が集積されたが、悪天候が続いた時は1日で100cmの降雪も珍しくなく、上部岩壁からの大きな雪崩が2度もテントを潰した。ある夜半、雪崩に襲われた。潰れたテントには3人が寝ていたが、一番奥の私と隣の西堤隊員は身動きもできない。ザザッと音がした瞬間、無意識のうちに右腕で顔面を覆っていたので呼吸はなんとかできるが、潰れたテントに覆われた手足は一切動かない。ナイフを取り出してテントを切り裂くことなど不可能だった。入口に寝ていた山本隊員がかろうじて外に逃げ出る事ができた。テントから脱出して掘り出されるまでの30分は、徐々に奪われていく体温、締まる雪による緊縛感に恐怖と絶望を感じた時間だった。

 7月10日、C3に向かっていた賀集パーティーは、テントサイト直前のトラバース終了間際に板状雪崩に遭い賀集隊長と外山隊員が流された。賀集隊長は途中で停まったが、外山隊員は100mも流されかろうじてプラトーの縁で停まった。そのまま落ちていれば、マンドゥ氷河まで2000mのダイビングが待ち受けていた。

 登頂日となった23日、最後尾で下山していた寺内隊員が最後の岩壁を空中懸垂中に、左腕が動かなくなり(交感神経障害)10mほど落下した。打撲のみで事なきを得たが、以後下降不能となり賀集隊長と共に7550mで着の身着のままの辛いビバークとなった。

 24日、全員がC4に合流して下山を開始した。C3も撤収して雪のプラトーをC2へと向かっていた。下山シーンをビデオに収めようと思い、先頭を歩いていた私は後ろを振り返ってカメラを構え後続のパーティーを撮影し始めた。その直後、背後のセラックが音を立てて崩れ、ブロック雪崩となって遥か彼方の氷河へと流れ落ちていった。もしも撮影のために立ち止まらなかったら、恐らく全員が流されたと思うと「神の御加護」という幸運を感じずにはいられなかった。

 56日に及ぶ長い登山期間のうち、雪崩に襲われる事13回、ルート上に張り巡らせた固定ロープ3500mのうち回収できたのは50mだけ、ほとんどのロープは雪崩に切断されたり、埋もれたりして回収不能となった。それでも全員が大きなけがもなく無事にBCに還り着くことができたのは、幸運だったとしか思えない登山となった。

shigehiro-vol7_02プラトー手前のセラック帯

重廣 恒夫 / Tsuneo Shigehiro
登山家