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登山家・重廣恒夫のヒマラヤアーカイブズVol.6 ~ヒマラヤの空を舞うハンググライダー~.
UPDATE : February. 26 2019

キャンプ4(7550m)

日本のヒマラヤ登山の発展に多大なる貢献をしてき登山家 重廣恒夫氏。
1973年のエベレスト南壁から、1995年のマカルー東稜まで22年間、14回ものヒマラヤ登山隊に参加。
「より高い山を、より厳しいルートから、より難しい方法で登る」という、アルピニズムの哲学を長年にわたり、ヒマラヤで実践しながら幾多の高峰に足跡を残してきた重廣氏の軌跡をご紹介して行きます。

shigehiro-vol6_02カンチェンジュンガをめざして

カンチェンジュンガ登山の歴史

 カンチェンジュンガはネパールとインドシッキム州の国境に聳える、世界第3位の高峰で南峰(8476m)、中央峰(8482m)、主峰(8586m)、西峰(8505m)と4座の頂を連ねる巨峰である。外国人で初めてこの山に近づいたのは1848(嘉永元)年秋のイギリス人植物学者ジョセフ・ダルトン・フーカーで、2年間にわたって、シッキムやネパール東部地域の植生などの調査をおこない、その著書『ヒマラヤ紀行』は、探検記として世界中のヒマラヤを目指す人達に読まれた。1899(明治32)年にはダグラス・フレッシュフィールドが7週間かけておこなったカンチェンジュンガ山麓周回の記録、『カンチェンジュンガ一周』もヒマラヤ古典の名著である。

 カンチェンジュンガはインド平原から目立つ山群だけに、日本人も、1916(大正6)年に日本画家の石崎光陽瑤が、1930(昭和5)年には同じく画家の吉田博も訪れそれぞれに絵画や版画を残している。登山を目的としてこの地に入ったのは、慶應義塾大学山岳部の初代部長で教授であった鹿子木員信で、1918(大正7)年、ダージリンからシッキムに入り、南のタルン氷河に達した後、帰路カブール(4810m)に登頂している。日本人によるヒマラヤ登山の嚆矢でもある。

 登山の歴史も8000m峰の中ではナンガパルバット、K2に次いで3番目である。最初の挑戦は1905(明治38)年の国際隊によりおこなわれた。その後も偵察や試登が繰り返され、ドイツ隊や国際隊が挑戦を続けたが、初登頂は50年後の1955(昭和30)年のイギリス隊による主峰登頂まで待たなければならなかった。8000m峰14座では7番目の初登頂である。以後、ネパール政府はこの山の登山許可を出さなかったが、1977(昭和52)年春に解禁となり主峰以外の頂や新ルートからの挑戦が繰り返された。

 日本人の登山は、カンチェンジュンガ山群の登山許可が出ない中、京都大学学士山岳会(AACK)が西峰をヤルン・カンと呼んで許可を取得、1973(昭和48)年初登頂に成功した。1980(昭和55)年、山岳同志会隊が主峰北壁を初登攀、翌年には日本ヒマラヤ協会隊が主峰と西峰の交差縦走を試みるが、2座の登頂にとどまり、縦走はかなわなかった。

日本山岳会創立80周年記念事業

 日本山岳会のカンチェンジュンガの縦走は、1976(昭和51)年のナンダ・デヴィ登山隊に参加した隊員達の有志が計画したもので、8000m近い高度での縦走成功の次は8500m前後の高度を4つ持つカンチェンジュンガがその候補に挙がった。1983(昭和58)年4月実行員会が発足し、6月に理事会承認を受け、同月文部省の後援を取得した。その後「カンチェンジュンガ委員会」も発足して対外的なバックアップ体制が整った。また、創立80周年記念事業にも組み入れられた。当初はシッキム側のゼムギャップからカンチェンジュンガ南峰に登り、中央峰、主峰、西峰(ヤルン・カン)と縦走する計画でインド登山財団や政治ルートを通じてインド政府と交渉を進めていたが、インド側からの登山許可の取得は絶望的と判断し、ネパール側からのカンチェンジュンガ全山縦走に切り替え、8月にネパール観光省より4座の登山許可を取得した。

資金調達

 一度に8500m前後の峰を登頂・縦走する登山では、前進基地以上での隊員の動きが複雑となり、要する物資も膨大である。それらを調達し、梱包してカトマンズに持込み、長いキャラバンを経てベースキャンプに運びこむためには多額の資金が必要であった。会員募金や企業募金には限りがあったので、反対意見も多かったが「世界最高所からのハンググライダー飛行」を組み込み、日本テレビ放送網と読売新聞社の後援を得ることができた。

長い登山

 84(昭和59)年1月25日第一次先発隊日本出発、2月4日第二次先発隊出発、18日本隊が出発した。19日には第一次キャラバン隊がヒレを出発し、22日チャーター機でタプレジュンに到着した本隊と26日に合流し長いキャラバンが始まった。3月14日にベースキャンプが建設され、15日よりルート工作を開始したが、この登山の難しさは標高7200mの前進基地より、南峰(8491m)、中央峰(8478m)、主峰(8586m)のルート工作を同時進行することにあった。私はこの前進基地で指揮をとっていたが、南峰から中央鋒までの縦走も加えると31日間滞在した。これは最も長い高所滞在記録だそうである。おかげで体重は15㎏減った。8000mを越えると急峻な岩壁を攀じることは難しいので、岩壁に喰いこんだ細いルンゼの雪や氷を辿りながらルートを延ばした。

shigehiro-vol6_03氷壁を登る

shigehiro-vol6_04-2▲細いルンゼを南峰に向かう▲南峰よりの下降

shigehiro-vol6_05南峰登頂

 ベースキャンプ入りしてから2ヶ月以上が経った5月18日、和田城志・三谷統一郎・重廣の3名は南峰のC5を出発し、西峰への縦走に出発した。各自20㎏前後を担いだ重荷も南峰に到達するまでは苦にならなかったが、中央峰に向かう頃から雪質が悪くなり、途中で私の酸素が切れたために苦しい縦走になってしまった。夕暮れ迫る中央峰に到達し、暗闇の中を中央峰のC5に下ったが、私は酸素が途切れたことに起因する体調の悪化で以後の縦走を断念した。20日、和田と三谷の縦走隊は中央峰と主峰のコルからの主峰への縦走を諦め、前日に主峰登頂隊が登ったルートから頂に立ったものの時間的な余裕がなくなったので、西峰への縦走は諦めざるを得なかった。

shigehiro-vol6_06中央峰登頂

 5月22日に全隊員がベースキャンプに戻り、23日から帰りのキャラバンを開始したが、最終のキャラバン隊がカトマンズに到着したのは6月17日だった。私にとっても2番目(1番目は73年4月6日~11月末)に長いネパール滞在となった。

ハンググライダー飛行

 資金調達に頭を悩ませた時に浮かんだのが、プロスキーヤー只野直孝だった。彼は、当時私が所属していたウインター部(スキー用品販売)の、契約プロであった。スキーの試乗会後の飲み会で、「何時かハンググライダーでヒマラヤの空を飛んでみたい」と聞かされていた。すぐに企画書を作成して、80(昭和55)チョモランマで一緒だった日本テレビの岩下莞爾さん(88年チョモランマ三国友好登山宇宙中継隊長)の自宅を訪問した。快諾を得たばかりか、当時日本テレビの看板番組だった11PMの製作部長の要職にありながら、テレビ隊の隊長として参加して貰った。

 時間的な都合で当初予定の主峰からは飛ぶことはできなかったが、縦走開始前の5月11日、標高7850mから翼長11mのハンググライダーが飛び立ちヒマラヤの大空を舞った。

shigehiro-vol6_07ヒマラヤの空を舞うヒマラヤンタック号

重廣 恒夫 / Tsuneo Shigehiro
登山家