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登山家・重廣恒夫のヒマラヤアーカイブズ Vol.5 ~生還~.
UPDATE : January. 8 2019

キャンプ4(7550m)

日本のヒマラヤ登山の発展に多大なる貢献をしてき登山家 重廣恒夫氏。
1973年のエベレスト南壁から、1995年のマカルー東稜まで22年間、14回ものヒマラヤ登山隊に参加。
「より高い山を、より厳しいルートから、より難しい方法で登る」という、アルピニズムの哲学を長年にわたり、ヒマラヤで実践しながら幾多の高峰に足跡を残してきた重廣氏の軌跡をご紹介して行きます。

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▲BCよりのチョモランマ北壁 右下から上部岩溝(影の部分)を登り頂上へ


エベレスト(チョモランマ)登山の歴史

 標高8848mのエベレストは世界一高い山として、古くから多くの人々をひきつけ今なお多くの登山者を迎えている。エベレストは1852年にイギリスの測量局が「ピーク15」を世界最高峰と認定、1865年に前任(1830~43年)の測量長官ジョージ・エベレスト卿の名を冠した山名を提案しエベレストと命名された。1921年初めての挑戦が英国隊によってチベット側から行われた。英国は1924年3回目の遠征隊を派遣し、北東稜からの初登頂を狙うが失敗。三次隊では頂上に向けて出発したG・マロリーとA・アービンが消息を絶った。以降、1932年までダライ・ラマの許可が得られず、チベット側は閉じられた。1933年、ふたたび第四次遠征隊を派遣8570mに到達したが登頂はかなわなかった。その後1938年まで3回の遠征隊を派遣したがいずれも登頂に失敗し、1939年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われなかった。
 1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側からの登山が可能となった。南側1番乗りも英国隊であった。1951年、英国隊はアイスフォールを突破しウエスタン・クウムに至る南東稜のルートを発見した。1952年、スイス隊はそれまでの最高高度8611mに到達した。1953年、満を持した英国隊のエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが5月29日に世界で初めての登頂に成功した。チベット側からの初登攀は1960年に中国隊が果たし、現在までに15本のルートからその頂が踏まれている。

チョモランマ北壁初登攀

 中国は世界で最も多くの高峰を持つ国である。世界最高峰チョモランマ(エベレスト)を頂点として第二の高峰K2など8000m峰14座のうち実に8座が国内か国境稜線上にある。
 しかし「文化大革命」によって10数年も外国登山隊の入国はかなわなかった。1976(昭和51)年に「文革」が収束し、中国の高峰を登りたいと世界中から多く登山隊が殺到した。79(昭和54)年6月、第二次大戦後初めてのチョモランマの登山許可が日本山岳会にもたらされた。同年偵察をおこない年が明けた80(昭和55)年2月22日、日本を発った登山隊は空路北京、成都を経てチベット自治区の古都ラサを経て3月6日、夢にまで見たチョモランマのベースキャンプに到着した。24日、北壁直下の6150mに前進基地が設営され翌日からルート工作が開始された。順調にルートは伸びて4月25日にはホーロンバイン・クーロワールを突破して8450mに到達した。27日に登頂計画が発表され、第一次隊に尾崎隆、和田昌平、重廣、第二次隊に小林利明、宇部明が指名され5月2日、前進基地を出発した。しかし、第一次隊は降雪で登頂を断念。後続していた二次隊の宇部隊員が雪崩に巻き込まれ2000m転落して亡くなった。

shigehiro-vol5_02▲左/北壁に取付く高見隊員▲右/前進基地を出発する和田(左)、小林(右)隊員

 4日、意気消沈した前進基地に二通の電報が届いた。一通は宇部隊員のご両親からで、「ジュウブンナ、チュウイヲ、ハラッテ、ゼヒ、アキラノカワリニ、チョウジョウニ、タッテイタダキタイ、ホクヘキタイノ、トウチョウヲ、ココロカラ、オイノリシテイマス」。そしてもう一通は西堀栄三郎総隊長からの激文だった。5日、今後の行動を検討、宮下秀樹副隊長や全隊員の総意で再アタックが決まった。

shigehiro-vol5_03▲チョモランマ北壁ルート図

 9日、尾崎隊員と私は再び8230mの最終キャンプに入った。10日2時半起床。6時20分、出発。岩壁に積もった雪は薄くアイゼンが滑る、さらにチリ雪崩に襲われ岩棚の下に避難。

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▲チョモランマ北壁上部を登る尾崎隊員(左・中ほどの黒点)と雪崩

 どんどん時間が過ぎていったが、西稜のコルに出る岩壁にハーケンを打ちながら高度を稼いだ。17時前、8700m地点で2人の酸素ボンベが空になった。困難な岩稜から最後は雪稜となり超高所でのラッセルとなった。20時52分(現地時間)、尾崎が夕暮れのチョモランマの頂上に立った。それから10分後、尾崎と私は8848mの頂で握手を交わした。直後に太陽が西の彼方に沈んだ。眼前のマカルー(8463m)が赤く燃え、すぐに漆黒の闇となった。

shigehiro-vol5_05▲チョモランマ(8848m)の頂に立つ重廣

死のビバークからの生還

 トップで頑張った尾崎が疲労と雪目で足元がおぼつかなくなったが、自分の足で下らない限りは生きて還ることはかなわない。途中の懸垂下降ではピッケルを支点にしたり、空中懸垂で絶望的な状況に陥ったりした。そして、11日2時10分、ついにヘッドランプの灯が消えた。
 8650m地点で氷を削って腰をおろした。外気温-30℃、口にする物もない着の身着のままのビバークは過酷だったが、風の無いのが幸いした。それでも寒気が五体を襲い、眠らないようにと足踏みをしながら数を数え始めたが4800位で途切れてしまった。
 記憶に残っているのは、「花が咲き乱れ、小川のせせらぎと、小鳥の囀り」が聞こえた幻覚だけである。短い時間ではあるがウトウトしてしまったらしい。7時10分、明るくなるのを待って下降を開始した。下降点に到達して54回の懸垂を繰り返して2000m下の前進基地に降り立ったのが12日0時20分、仮眠をして夜明けと共に撤収作業を始め、23時過ぎに全隊員の待つベースキャンプに帰還した。

shigehiro-vol5_06▲登頂後、チョモランマBCにて 左から加藤、尾崎、重廣隊員、渡辺兵力隊長

還ってこない友

 チョモランマ北壁に挑んだ隊員のうち、宇部隊員を追うように82(昭和57)年、小林隊員は加藤保男(80年、チョモランマ北稜単独登頂)と共に冬のエベレストから還ってこなかった。和田隊員も85(昭和60)年、アコンカグア南壁から還ってこなかった、凍傷のため北壁からの登頂を断念した「不死身の男」と呼ばれた高見和成さんも、98(平成10)年、冬の大山天狗沢から還ってこなかった。尾崎隊員も2011(平成23)年、4度目となるエベレストから還ってこなかった。
 73(昭和48)年から16(平成28)年まで13回のヒマラヤ登山隊に参加したが、延べ参加者248名のうち既に48人が山で逝ってしまった。如何に体力、技術の向上に努め経験を積み重ねても、自然の猛威の中では無力であることを実感せざるを得ない。

重廣 恒夫 / Tsuneo Shigehiro
登山家