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登山家・重廣恒夫のヒマラヤアーカイブズ Vol.3 ~表紙を飾った写真~.
UPDATE : August. 27 2018

キャンプ4(7550m)

日本のヒマラヤ登山の発展に多大なる貢献をしてき登山家 重廣恒夫氏。
1973年のエベレスト南壁から、1995年のマカルー東稜まで22年間、14回ものヒマラヤ登山隊に参加。
「より高い山を、より厳しいルートから、より難しい方法で登る」という、アルピニズムの哲学を長年にわたりヒマラヤで実践しながら幾多の高峰に足跡を残してきた重廣氏の軌跡をご紹介して行きます。

shigehiro-vol3_01▲コンコルディアから初めてK2が見えた

K2(8611m)

 パキスタンと中国新疆ウイグル自治区の国境線上に位置する世界第2位の高峰である。1856年からインド測量局が測量を開始した際につけられた測量番号(K1-マッシャブルム、K3-ブロードピーク、K4-ガッシャブルムⅡ、K5-ガッシャブルムⅠ)でもある。
 K2に最初に挑んだのは1902年イギリス・オーストリア・スイスの合同隊である。09年イタリア隊が挑戦するも6000mに到達するにとどまった。さらに38年、39年とアメリカ隊が挑戦するが初登頂ならず4人の命が失われた。その後第2次世界大戦の為登山は中断された。53年にアメリカ隊が再挑戦するも隊員の一人が高山病で命を落としてしまった。初登頂が達成されたのは翌54年で、8月31日イタリア隊によってである。その後60年、75年、76年とアメリカやポーランドの登山隊が挑戦するも、頂上は遠く登頂には到らなかった。
 日本国内では1974年第6回ヒンズークシュ・カラコルム会議でK2登山の提案があり、75年には偵察隊も派遣されて日本隊のK2登山が現実味を帯びてきた。76年1月パキスタン政府から登山許可を受け取り8月15日、日本山岳協会(現日本山岳・スポーツクライミング協会)の主催が決定された。登山隊員は公募され、北は北海道から南は九州まで17都道府県、所属山岳会も27という寄せ集めの登山隊であった。

* * *

 1977年5月9日、羽田空港を出発し、ラワルピンディからスカルドには飛行機で飛び、バハーまでは隊員はジープで、隊荷はトラクターで移動した。カラコルムヒマラヤのキャラバンは緑の少ない炎熱の砂漠から始まる。それでもバルトロ氷河に入ると報告書の写真でしか見たことのない山々が身近にあり足も軽くなる。キャラバン開始から20日後コンコルディアに到着、目の前に夢にまで見た天を突き刺す三角錐のK2が屹立していた。翌日待望のベースキャンプに到着し、6月17日から本格的な登山が開始された。

shigehiro-vol3_02▲C3への岩と雪のミックスした岩稜の登攀

shigehiro-vol3_03▲氷壁帯を抜けて上部プラトーに出るとやっと頂上が見えた

 登山隊員39名という大所帯だが、それはネパールと違って荷物を担ぐ高所ポーターがまだカラコルムでは一般的ではなかったので、6班に編成された隊員がルート工作・荷上げ、キャンプ設営を分担しておこなう必要があったからである。8千m峰14座の中でもK2のルートは難しい。極度の高山病にも悩まされた。それでも隊員たちの力によって徐々にルートも延び、8月2日アタック隊員が発表された。4日には第一次隊5名が出発したが悪天候で引返した。吹雪で4日間待機した8日に二次隊3名が頂を目指した。頂上直下で1隊員がクレバスに落ちるというハプニングもあったが、18時50分頂上に到達した。

shigehiro-vol3_04▲頂上に立つ中村(右)、高塚(左)隊員

shigehiro-vol3_05▲18時50分、夕闇せまる頂上に立った

 この時私はアタック隊リーダーとしての役割と16mmムービーと写真撮影という2つの役割を担っていた。ムービーは最終キャンプ出発から登頂までのシーンを撮影し、世界最高所でのブロッケン現象の撮影というおまけまでついた。スチール写真は報告書や上條恒彦が歌った映画主題歌のレコードジャケットなどに使われた。登山隊には映画隊も同行し、『白き氷河の果てに』は劇場で公開され、毎日放送でも『K2登頂106日の群像』が放送されギャラクシー賞を受賞した。

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重廣 恒夫 / Tsuneo Shigehiro
登山家