HAGLÖFS JAPAN | ホグロフス ジャパン

IMG
登山家・重廣恒夫のヒマラヤアーカイブズ Vol.2 ~世界一美しい双耳峰~.
UPDATE : June. 21 2018

キャンプ4(7550m)

日本のヒマラヤ登山の発展に多大なる貢献をしてき登山家 重廣恒夫氏。
1973年のエベレスト南壁から、1995年のマカルー東稜まで22年間、14回ものヒマラヤ登山隊に参加。
「より高い山を、より厳しいルートから、より難しい方法で登る」という、アルピニズムの哲学を長年にわたりヒマラヤで実践しながら幾多の高峰に足跡を残してきた重廣氏の軌跡をご紹介して行きます。

shigehiro-vol2_01▲世界一美しい双耳峰 ナンダ・デヴィ

ナンダ・デヴィ東峰(7434m)

 インド北部、ガンジス河とジャムナ河の源頭に位置するガルワルヒマラヤは世界で最も美しい地域と言われ、盟主ナンダ・デヴィはインド最高峰である。それゆえ古くから聖なる山として、土地の人達の信仰の対象として崇められていた。また、一時イギリスに統治されていたこともあり、1947(昭和22)年インドが独立を果たすまで多くのヨーロッパ人によって踏査された。本格的にナンダ・デヴィの登山が試みられたのは1883(明治16)年である。しかし、登山基地となる内院への接近が困難を極めたため、主峰(7816m)がイギリス・アメリカ合同隊によって登られたのは1936(昭和11)年であり、人類最初の8000m峰登山となった1950(昭和25)年のフランス隊によるアンナプルナⅠ峰初登頂までは、登頂された最も高い山としての地位を保ち続けた。同じ年の秋、日本で初のヒマラヤ登頂を果たす立教大学登山隊がナンダ・デヴィの南東に位置するナンダコット(6861m)に初登頂している。東峰はポーランド隊が1939(昭和14)年に初登頂した。1951(昭和26)年、ロジェ・デュプラの率いるフランス隊がヒマラヤの高峰では初めての試みとなる縦走を目指したが、主峰から東峰に向かったデュプラは消息を絶った。多くの登山者に今も愛唱されている「もしかある日、おれが山で死んだら・・・・」の歌は、還ってこなかったデュプラの手帳に書き残されていたものである。1974(昭和49)年、デュプラの遺志を継いだフランス・インド合同登山隊が縦走を目指したが失敗し、翌年の日本・インド合同登山隊に初縦走のチャンスが巡ってきた。

* * *

 1975(昭和50)年春、私は日本山岳会に入会した。日本山岳会のナンダ・デヴィ日印合同登山隊に参加することになったからである。登山隊は1973(昭和48)のエベレストで一緒だった鹿野勝彦さんが隊長を務め、高見和成・加藤保男も参加した。

 1976(昭和51)年5月、灼熱のニューデリーでインド側隊員と顔合わせをおこなった後、軍用トラックに隊荷を積み込み、暑さと悪路に悩まされながら、一昼夜かけてガルワルヒマラヤの最奥の町ジョシマートに到着した。

 5月5日、先発隊としてヘリポート作りのため内院に入った。インド陸軍のヘリコプターで隊荷を輸送する予定だった。しかし、ヘリは着陸することができず空中投下となり、落下した装備が広範囲に散乱して1回で終わりとなった。その後はポーターと羊を使った輸送に切り替えられた。

shigehiro-vol2_04▲ヘリコプター飛来

shigehiro-vol2_05▲投下によって散乱した装備・食料

 5月12日、ベースキャンプ予定地に到着して本格的な登山が始まった。我々の目的は東峰から主(西)峰に初縦走することであり、2つのルートからそれぞれの頂に向かった。

shigehiro-vol2_06▲ナンダ・コット(6861m)を背に東峰に向かう

 6月3日に3名、9日に4名が東峰の登頂に成功した。

shigehiro-vol2_07▲東峰(7434m)登頂

 13日高見和成・長谷川良典の2隊員が縦走を開始し西峰直下のW5に入り、翌々日主峰の頂に到達してサポート隊と合流し下山した。同じ日にインド隊員のプレムチャンド陸軍少佐と重廣が第2次縦走隊としてE3に入った。しかし14日に天候が急変、主峰側のサポート態勢が取れなくなったこともあって、17日縦走を断念して下山した。

shigehiro-vol2_08▲ベースキャンプを去る日

重廣 恒夫 / Tsuneo Shigehiro
登山家