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登山家・重廣恒夫のヒマラヤアーカイブズ Vol.1 ~寒さで切れたフィルム~.
UPDATE : May. 16 2018

キャンプ4(7550m)

日本のヒマラヤ登山の発展に多大なる貢献をしてき登山家 重廣恒夫氏。
1973年のエベレスト南壁から、1995年のマカルー東稜まで22年間、14回ものヒマラヤ登山隊に参加。
「より高い山を、より厳しいルートから、より難しい方法で登る」という、アルピニズムの哲学を長年にわたりヒマラヤで実践しながら幾多の高峰に足跡を残してきた重廣氏の軌跡をご紹介して行きます。

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1973年エベレスト(8848m)南壁

 1973年10月27日午後、私たち(森田勝・重廣)は世界最高峰エベレスト南壁8380m(当時の世界最高到達点)に到達した。気温-30℃の殺伐とした岩壁には時折体が浮くような突風が吹きぬけていた。到達点で何枚かの写真を撮って我々は最終キャンプ(C5=8000m)へと下った。明日の再アタックのために酸素ボンベを最高所に残すことは忘れなかった。

* * *

 私の山登りは小学校2年生の時に始めた昆虫採集に端を発している。そして1961年(昭和36年)中学2年生の時に読んだ「処女峰アンナプルナ-最初の8000m峰登頂-」に触発されて、ヒマラヤ登山を夢見るようになった。高校1年生から本格的に岩登りを始めゲレンデ(岩登りのトレーング場)通いをするようになった。岡山の大学に進学してからは、「岡山クライマースクラブ」という岩登りを専門とする山岳会に入り、「ヨーロッパの三大北壁からヒマラヤ」をキャッチフレーズに、「冬の岩壁の継続登攀」を繰り返した。

 1953年のマナスル初登頂に触発されて、それまでの大学山岳部の隆盛だけではなく、社会人山岳会も急拡大した。いわゆる第2次登山ブームの到来である。58年にはRCCⅡ(第2次ロッククライミングクラブ)が設立され、谷川岳・穂高岳や剣岳の岩と氷の殿堂で腕を磨いた社会人クライマーたちは64年の海外渡航の自由化に、堰を切ったようにヨーロッパアルプスの岩場に向かった。65年には多くのクライマーが三大北壁に挑み、マッターホルン・アイガーが登られ、66年にはグランド・ジョラスの北壁が登られた。

 67年の夏、勤労者山岳連盟の岩登り講習会が北アルプスの涸沢でおこなわれた。この頃には私も第2次RCCのメンバーとなっていたので、講師として参加した。校長は伝説のクライマー吉尾弘さんで、長谷川恒男も講師として参加していた。その縁もあって、70年12月28日から南アルプス甲斐駒ケ岳の厳冬期赤石沢完登に挑んだ。大武川から赤石沢を経て奥壁左ルンゼ~中央稜~甲斐駒ヶ岳の頂上に至る長大なルートの完登は、当時未踏の課題として多くのクライマーが狙っていた。途中悪天による停滞はあったが、71年1月3日無事に頂に立つことができた。

 その年の春オニツカ(現アシックス)に入社した。同年7月には第2次RCCのエベレスト南壁登山隊の隊員に誘われ、73年4月に先発隊としてネパールに飛んだ。私にとっては初めての海外渡航、初めてのヒマラヤ登山であった。

 カトマンズで隊荷の通関を済ませた後、輸送隊の第一陣としてベースキャンプに向かった。1ヶ月のキャラバンの後ベースキャンプに到達した。

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 8月31日にベースキャンプが完成し、遅れて日本を発った本隊も到着して、南壁への登山が始まった。ルートはなかなか伸びず10月15日最終ステージが開始された。

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 話は冒頭に戻る。
 最高到達点からC5に戻ると、迫りくる冬のジェットストリームの接近もあって、登山の中止が伝えられた。私たちの夢は終わった。
 手元には8380mから撮影したプモリ・チョオユーの写真が残された。フィルムは、寒気で切れていた。
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重廣 恒夫 / Tsuneo Shigehiro
登山家